阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第40号

由岐町の伝説

史学班(徳島史学会)  湯浅安夫

 由岐町は太平洋に面し、風光明媚なほぼ東西にのびる細長い地形である。山地が海に突き出て、その間を由岐川、田井川等の谷川が海にそそぐ、その沿岸の僅かな平野に人が住みついている。東より伊座利・阿部・志和岐・東由岐・西の地・西由岐・木岐と集落が点在している。
 現在は車道が通じ難なく行き来できるが、かつては陸の孤島として有名であった伊座利・阿部を含むこの地域は、独特の生活様式をもち、それに根ざした独特の伝説もあることであろうと期待して足を運んだ。多くの伝説が「由岐町史」や「三岐田町史」にも収録されている。また町内の古老が語った昔話を集めた「由岐の昔ばなし」という本も出され、それらにほとんどの伝説が集められている。それ以外に何かあるはずだと、尋ね歩いたがなかなか収穫がない。「もう10年早かったらなあー、昔を語る人がほとんどいなくなって…」ということであるが、その言葉は今まで訪れた他の町村でも聞かされた。それでも収録されていない伝説もあることはあった。それらを含めて由岐町の伝説をまとめてみると、その数は90以上の多くになった。それを自己流に分類してみたのが下の表である。
 海にへばりついたような地形から、海、そしてそれを舞台とした生活の中心である漁に関する伝説が多くて半分以上をしめ、面積においては大部分を占めている山地に関する伝説の倍ぐらいの数があるのは当然といえる。阿波の「イタダキサン」で有名な阿部などを中心に、町外出稼ぎにまつわる伝説があること、また内陸から閉ざされた地域性もあって、落人伝説(平家伝説もあり、阿部の喜多條家、木岐の朝海家、田井の中田家等)が伝えられていることが、由岐町の伝説の特色といえる。阿部の「お水大師」など弘法伝説もあり他町村にも多い大蛇や狸にまつわる話は由岐町にも多かった。その伝説のすべては紹介できないが、町史などに収録されていない伝説を中心に、そのうちの幾つかを紹介しよう。

 ○お大師草
 一般に「われもこう」と呼ばれる草を由岐では「お大師草」という。むかし、ある人が腹痛で苦しんでいたところ、通りかかった坊さんが近くに生えていた草を抜いて、これを飲んでみなさいと言われたので飲むと、たちどころに腹痛は治った。その人は感謝して帰って仏壇を拝むと、そこにあった弘法大師の顔とさきほどの坊さんがそっくりであった。それであの坊さんは弘法大師の化身であろうということで、その後その草を「お大師草」と呼ぶようになったそうである。(竹林六郎さん[西の地・76歳]平成5年談)
 ○一本足
 むかし、阿部の浜に港がなかったころ、漁船は全部、底に樫の木の太桟をレールの様に2本打ち付け、砂の上に木枠を敷いて浜へ引き上げていた。そして「あるきさん」と呼ばれる専属の船番を共同で雇っていた。船番は浜の高台にある5〜6坪の番小屋で寝起きして四六時中浜全般の見張り役をつとめていた。
 ところで、この「あるきさん」を震えあがらせていた不気味な生き物が、湾を中心に阿部灘全域に出没していた。怪物は「一本足」と呼ばれ、背丈は普通の人間位であるが、体中黒い毛でおおわれ、頭はすり鉢を伏せて被ったような格好で、大きな眼が二つ奥の方で光り、口は耳まで裂け、何より不気味なのは丸太棒のような太いただ一本の足で、波打ち際でも荒磯でもとぶように早く走ったということである。怪物は月の夜に限って浜や磯に現れ、貝を採って、殻のままかりかりと食うているところを幾人もの人が見たといわれている。時には番小屋の近くまできて、あるきさんを気絶させる程驚かせたという話も残っている。
 またあるとき、砂浜に三つの大きい足跡が100m 位離れてついていた。これは一本足の怪物が鹿ノ首岬にある「蛇のため」からお水大師の方へとんでいった足跡であると噂されたこともあったそうである。とにかく、昭和10年頃まで古老たちの間で、一本足の存在を信じていた人がかなりいたそうである。(喜多條瑞穂さん[阿部・71歳]平成5年談)
 ○狸から身を守った話
 由岐から志和岐へ行く道の途中に大きい山ももの木があり、その近くに浅い溜池がある。 
 昔、この溜池付近に狸がいて、時どき人が化かされ、道と思って歩いて行くと溜池に入るという危ない所で、そこを通る時は早足で通り抜ける所であった。
 昭和17年に97歳で亡くなったおばあさんは、志和岐と由岐を行き来しこの溜池の所を通る時はいつも小石を持っていた。狸が出たなというのは気配でわかるので、その時は小石をぶつける。狸が出た時は、バタバタと音がする時もある等よく話していた。気丈なおばあさんであったので化かされたことはなかった。
(生田利子さん[西の地・90歳]平成5年談)
 ○鯨の供養
 明治26年11月4日。この日阿部浦はすべての浦人が浜へ出て、大変な騒ぎになっていた。今まで見たこともない大きい鯨を浜へ引き上げて、肉の分配をおこなっていた。この鯨は長さが15〜16m もある大きいものだが、朝がた、阿部沖女郎碆を回ったところで沈みかけていたのを漁師の一人が発見し、その通報で浦の漁師が総出でつかまえて、浜中の船を総動員して漕いでかえったものであった。浦人たちは、思いがけない鯨の肉の分配に喜びながら、みんなで分配や後始末の作業をすませた。その仕事ぶりは機敏で整然としていて、今も語り草として残っている。そのあと、同月17日、浦中総休みにして浜に集まり、東西二ケ寺の住職をたてて亡き鯨の供養を行ったそうである。
 その時、阿部の旧家喜多條家には、箪笥にたくさんの刀がしまわれていたが、鯨を解体するのにその刀を貸してくれともっていって、返ってこなかったそうである。
 なお、持福寺の過去帳に鯨の供養のことが記録されている。
(「由岐の昔ばなし」喜多條瑞穂さん談)
 ○がたろうの神様
 阿部の港の入り口、岬状の小山の麓に地蔵さんがまつられている。子供の水難事故があったからであろうといわれているが、地蔵さんの顔・姿であるのに「がたろう=河童」の神様と呼ばれている。この地蔵がつくられたのが明治15年、廃仏毀釈運動の最中であったので、地蔵さんにすると、首をとられたりこわされたりするかもわからんと考え、河童の神様にしたのでないかと考えられる。(竹林六郎さん談)
 ○いぶきの精
 阿部の喜多條家の屋敷には、県内でも珍しい樹齢600年以上ともいわれるいぶきの巨木がある。(町指定天然記念物)
 時代は定かでないが、昔先祖がこの木の下で昼寝をむさぼっていたら、夢に白髪の老人が現れ、「わしはいぶきの精じゃが、何時もお世話になっているので何か願い事をかなえてあげよう。お前は筆で生計をたてていくのがいいのか、身体で生計をたてていくのがいいのか?」と問うので、先祖は「私は少々身体が弱いので、筆で生計をたてていきたいと思います」というと、「よしその願いをかなえてあげよう」といって、すーっと姿が消えた。その後、喜多條家は代々筆で生計を立てることを常とするようになった。
 戦後、連合軍支配下の時、進駐軍のある将校が日本人の植物学者と視察にやってきて、このいぶきが気にいり、譲ってくれという。金額はドルでいっていたが円に換算すると数万円だったように思うがはっきりしない。とにかく大金だった。しかし同行の植物学者がもって帰っても根づかないだろうと、とめたので沙汰やみになったそうである。
(喜多條瑞穂さん談)
 ○お地蔵さんの首
 各地に首なし地蔵があり、それにまつわる伝説も多い。何故首がとれるのか?いろいろな理由が考えられる。自然の災害によるのもあり、真言宗以外の他宗の嫌がらせ、博打うちがお地蔵さんの首をふところに入れておくと勝つと言われていたので、もっていった等いわれているが、明治維新後の廃仏毀釈運動のおり、首をとられたのも相当あったのでないかと考えられる。(竹林六郎さん談)
 ○歴史の古い喜多條家
 阿部の旧家に喜多條家と松村家がある。藩政時代、喜多條家は岡庄屋、松村家は海庄屋をしていたそうである。喜多條家の古い系図は檀那寺にあずけてあったが、火災にあって焼けてしまってくわしいことはわからないが、戦国の武将北条早雲の一族が、戦乱を逃れてこの阿部に住み着いたらしい。喜多條の系図によれば、5代前までは「北条」となっている。家紋も北条早雲の紋は三つ鱗紋であるが、喜多條家の紋は丸に三つ鱗紋である。
(喜多條瑞穂さん談)

 参考文献 由岐町史(地域編)  三岐田町史  由岐の昔ばなし  阿波の語りべ
      阿波伝説集  日本伝説大系(第十二巻)


徳島県立図書館