阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第40号

由岐町の産業構造と観光

地理班(徳島地理学会)

平井松午1)・横畠康吉2)・板東正幸3)・立岡裕士4)・ 藤田裕嗣1)・下孝夫5)・

田中利幸5)・三宅裕之5)

1 はじめに
 由岐町は標高300〜400m の急峻な海部山地によって阿南市と隔てられ、太平洋に面して位置する。町内に点在する集落は摺り鉢状の谷底(湾奥)に立地し、1957(昭和32)年に由岐〜阿部間の県道が開通する以前は、集落間の交通は海上に頼っていた。平地に恵まれない由岐町の産業の中心は、古来より漁業である。1960年には、総就業者数の36.1%が水産業に従事し、近年、その割合は25%前後で推移しているものの、由岐町の総生産額の17.5%(1988年)は水産業によって占められ、その割合は県下では宍喰町に次ぐ地位を占めている。他方、わずかに平地が広がる町西部では、温暖な気候を利用して施設園芸農業も行われている。
 県内の他町村と同様に、本町でも過疎化が進行するとともに、第一次産業従事者の高齢化、さらに沿岸漁業の長期的な低迷という経済動向の中で、その産業構造も変化しつつある。そこで本班では、こうした近年の由岐町の第一次産業の動向を捉えるとともに、田井の浜海水浴場や豊かな自然環境に恵まれた本町の観光産業の現状についても報告することにしたい。

2 由岐町の第一次産業
(1)農業
1 生産基盤と生産性
  背後を海部山地が占める由岐町は、山林面積の占める割合が多く、耕地率は4.1%しかくなく、その多くが田井・木岐地区の平坦地に限られている。耕地の水田率は73.4%に達しているものの、農業経営の安定基盤とはなっていない。1965年から90(平成2)年にかけて、農家数は53%、経営耕地総面積は48%も減少した(表1)。一船的に、農業経営体と農業経営基盤の相対的数量は、工業生産の拡張によって地元労働市場の拡大をともなった地域経済構造の社会的変化に対応し、専業農家と兼業農家の地域内分化を経て、脱農化に向かう傾向にある。由岐町でも、農家数の減少は第一種兼業農家(1965〜90年の25年間に82.5%の減少)および第二種兼業農家(同49.2%の減少)に顕著であって、専業農家の減少(同3.8%)は極めて少ない(表1)。このことは、農業経営基盤が小さく、農業収入が農家収益につながらず、早くから脱農化が進行したことを示すものである。


 由岐町の農業粗生産額は、1965年の2.02億円から1990年には6.93億円と2.9倍になっている。1990年における農家1戸当たりの農業生産所得は107.4万円で、徳島県平均の114.0%、海部郡平均の165.5%にあたり、県内の市町村ではかなり高い所得額を示す。土地生産性(耕地10a当たり生産農業所得)も15.9万円で、同じく徳島県平均の117.0%、海部郡平均の182.8%にあたる。これに対して、労働生産性(農業専従者1人当たり生産農業所得)は78.8万円で徳島県平均の77.0%、海部郡平均の98.7%にしか充当しない。
 以上のことから、由岐町では耕地面積と兼業農家数を減少させたものの、その一方で少数の専業農家による土地利用の高度化を展開させ、土地生産性と1戸当たり農業生産所得を高めたと考えられる。こうした地域的特性は、専業農家による特定農業部門に集中した季節性のある商品生産農業を行った結果でもある。
 1990年の作目別の農業所得の状況を所得係数からみると(表2)、花卉・畜産が高い値を示す。この所得係数は、徳島県の個別作目の平均農業所得を1とし、係数1を越える作目群は集中栽培が行われていることを意味する。由岐町の場合、とくに花卉栽培への集中度が顕著である。このことは、花卉栽培が地域的に集中する特産地が形成されていることを示すものである。

2 花卉栽培の実態
 由岐町の花卉栽培は、夏菊の出荷の始まった1971年から本格化する。70年頃までは、換金作物として野菜やタバコが農家の現金収入源であった。野菜・タバコの連作による厭地(いやち)現象が収益を減収させたことが、夏菊の栽培を始める契機であった。木岐地区で始まった菊栽培は、当初7戸の農家で栽培面積も0.7ha と小規模であったが、1983年に田井地区の団体営圃場整備が完了したことにともない、加温式ハウスの建造が進み、現在は9戸の農家(施設面積2.13ha)が菊を栽培している(表3)。1戸当たりの平均栽培面積は23.7a で、労働力は家族労働力が中心であるが、出荷・移植・ピンチ作業時には近隣農家の婦人層を臨時に雇用する栽培農家もある。1戸当たりの平均粗収益は、1千万円前後とみられる。


 菊の品種の主力は「秀芳の力」で、その他に名門や富士、スプレー、金丸などが栽培されている。これら数種の組み合わせにより、周年栽培が可能となった。1992年7月から翌年6月までの共同出荷実績を通じて栽培の実態をみると(表4)、総出荷数1,127千本のうち、「秀芳の力」59.2%、名門18.8%、スプレー13.4%などとなっている。品種別の出荷状況をみると、「秀芳の力」は10月・11月および翌年1月〜6月までの8カ月間、名門は7・8月の夏場、スプレーは10月〜6月に出荷されている。出荷総額は約9千万円で、主力品種の「秀芳の力」が72.8%を占めている。なお、「秀芳の力」を中心として9月は菊の育苗期にあたり、また、栽培農家の大半が稲作との複合経営を行っている関係から(表3)、田植の行われる4月には出荷量は減少する。
 出荷は個別選花で共同出荷をとる場合、市場取扱日である月・水・金の前日に出荷する。出荷先は大阪府下の生花業者で、ダンボールケースに200本を箱詰めした13〜15kg 単位で出荷されている。市場では、一番競りの八女産物に続いて徳島産が競りにかけられる。

(2)漁業構造
 由岐町の沿岸はいわゆる磯漁地帯をなす。古来、海部郷は潜水漁業を主とする宗像系海人族が、筑前地方から瀬戸内海を経由して定着したといわれ、10世紀に編纂された『延喜式(えんぎしき)』には、アワビが貢納水産物としてあげられている。また、藩政期には阿部(あぶ)、志和岐(しわき)、由岐、木岐(きき)に魚分一所が設置され、イワシ船曳網や任せ網、カツオ釣、海士(あま)漁業が盛んであったといわれる。
 しかしながら、明治中期以降、網元経営による大規模な網漁業は衰退し、それにかわって東シナ海の以西底曳き漁業や遠洋マグロ延縄漁業に出稼ぎに行くものが多く、資本や人口の流出がみられた。また、沿岸では網漁業の衰退により、相対的に海士漁業の比重が高まったものの、阿部地区では一部の離脱漁民が「いただき行商」を行うこともあった。遠洋・沖合い漁業が後退した現在、由岐町の漁業は沿岸漁業を中心に展開されている。
 由岐町には伊座利、阿部、志和岐、東由岐、西由岐、木岐の漁業集落があり、集落ごとに漁協が存在する。漁協が分立しているのは、古来より海士漁業が盛んで各集落の地先権が確立していたことにもよるが、各々の地区の漁業形態が異なることも大きい。
 表5は、1988年における漁協別の漁業形態をみたものである。伊座利地区は、会社資本で行われていたブリ大敷網定置を、1955年より組合自営としたが、ブリ漁の不振もあって、近年は採貝業のウェイトが高まっている。


 阿部地区では、東隣する伊座利地区の大敷網に刺激されて1952年に阿部大敷網組合を設立したが採算が合わず、1957年には早くも廃止に追い込まれた。他方、残された採貝業も、磯灼(いそや)けによる海草類の繁殖不良や乱獲によって不振を極めた。しなしながら、1960年代になって、アワビの餌となる荒布の採集禁止や稚貝の厳重な保護対策などによって、1963年以降、アワビの生産量が回復し、市場へも最高級銘柄である「阿波クロアワビ」としての安定供給が可能となった。他方、1969年に阿部漁港の改修工事が完了したことにより、小型漁船を利用してのイサキ・アジ・タチウオ・カツオなどの一本釣り漁業が操業可能となり、採貝業との兼業によって周年操業も可能となった。
 荒磯のために港湾施設がなく、元来、磯漁中心であった志和岐地区では、1955年より組合自営のマグロ延縄漁船を操業したが、不振のために1962年にはこれを売却し、その売却金をもとに漁協経営の養豚業を行っている。志和岐でも、1950年以降、漁港の建設・整備によって小型動力船が普及し、近年は釣り漁業にも進出している。
 伊座利・阿部・志和岐地区では漁港に恵まれず、漁船漁業が本格的に普及するのは1960年代以降であった。これに対して、由岐・木岐地区は良港を有し、早くから釣り・延縄・刺網などの漁船漁業が展開された。東由岐は延縄・一本釣りが中心で、そのほかに採貝業・定置網などの多様な沿岸漁業が営まれている。
 他方、西由岐地区は沿岸に独自の地先漁場をもたないため、沖合いの共同(入会)漁場への出漁を行ってきた。戦前には、東シナ海の以西底引き網漁業に多数の出稼ぎ者を出した漁村でもある。現在は、沿岸での一本釣りや釣り・延縄漁業が多い。木岐地区は地先漁場の範囲が広く、町内にあっては定置網の比重が比較的高くなっている。この他には、一本釣り+エビ刺網や釣り、海士漁業が中心となっている。
(3)遊 漁
 上述した従来の漁業形態に加え、1980年代後半以降、各漁協とも遊漁案内業を兼ねる漁協組合員が増加している(表5)。これは、由岐町沿岸が「ハエ(碆)」と呼ばれる岩礁や複雑な海岸線の出入りのある天然の釣り場を提供しているという優れた自然条件に加え、80年代後半からの「釣りブーム」による社会的ニーズの高まり、さらには各漁協とも港湾整備によって小型動力船が普及していたことによるものである。また、漁協組合員にとっても、遊漁案内業が安定した現金収入源をもたらしている。
 例えば、木岐漁協では1988年には遊漁者は5人を数えるに過ぎなかったが、1992年には32名(営業実数)にまで増加し、組合員の4割強を占めるに至っている(表6)。前述のように、木岐地区はおもに定置網・一本釣り・海士漁の3漁業形態からなるが、いずれの形態においても遊漁業者がみられる。うち、1992年にはとくに釣り漁業を行う組合員の遊漁出漁日数が多いが、これは釣り漁が全般的に不振なためであった。


 遊漁には「磯付け」と「船釣り」の方式があり、木岐では後者の方が多い。この場合、平均して1雙に4人の釣り客を乗せて、1日約3万円の収人となる。表7は、木岐漁協における月別遊漁出漁日数をみたもので、操業は10月〜1月期の冬季に集中している。木岐漁民の主たる漁業である定置網・一本釣り・海十漁とも、おもに4月〜9月までの夏場に行われ、10月〜1月の漁閑期がこれに当てられている。ただし、遊漁案内を行わない組合員は、この時期にはエビ刺網漁や三枚網、イサリ漁などに従事している。


 木岐漁協に所属する遊漁組合員の多くは、日和佐町との境界に近い、12〜13ケ所の釣り場を有する通称「沖のバエ」と呼ばれる第133・134号共同漁場に釣り客を案内する。この水域は東由岐・西由岐漁協との入会漁場でもあり、平常は一本釣り漁民によって「夜焚き」によるタチウオなどの一本釣りが行われているが、遊漁では夜釣りは禁止されている。
 遊漁は、釣り客側にとってはレジャーとして、漁民側にとっては重要な副収人源としての役割を果たすとともに、観光客の減少する冬場、地元民宿業者などに及ぼす経済的波及効果にも少なからぬものがある。それゆえ、遊漁案内業については、一層の安全性や資源保護、さらには他の沿岸漁業との共生を図るとともに、今後、由岐町の地域産業として構造的に定着させる途も必要ではないだろうか。

3 由岐町の観光
(1)観光施設と民宿業
 由岐町内の主要な観光・宿泊施設としては、田井の浜海水浴場と青少年旅行村(キャンプ場・明神荘)、9軒の民宿などがあげられる。また、特定の施設ではないが、地磯や沖での釣魚が観光資源として利用されている。しかしながら、この釣魚のための渡船(遊漁案内業)や民宿での食事に用いる農産物・漁獲物生産を除けば・観光業と町内の他産業との連関は乏しく、また町の経済に占める比重も必ずしも大きくない。本調査では、由岐町観光業の中核をなす民宿業を取り上げ、経営者に対する聴き取りとアンケート調査などから、観光産業の現状を明らかにしようとした。ちなみに、『徳島県観光調査報告書』(1993年)によれば、1989年末現在で海部郡には95の宿泊施設があり、その56%を民宿が占める。民宿は由岐町のみならず、県南部における中核的な宿泊施設といえる。
 由岐町の民宿9軒のうち、聞き取り調査ができた7軒の民宿の間には、規模(室数・収容人員)において較差があるが、宿泊客数にはそれ以上に大きな開きがある。しかし、規模や営業期間(通年/期間営業)と宿泊客数との間には、強い相関はないようである。7軒中5軒が1970年代中半に開業したもので、経営者の平均年齢は60歳と比較的高齢である。これらの民宿はいずれも兼業経営で、兼業の種類としては第一次産業が多く(農業3軒、漁業1軒)、自家産の農作物・漁獲物を民宿で利用している。また、飲食店を兼業している事例が2軒あった。
 民宿経営の労働力は、ほとんどが家族労働力で賄われている。すなわち、経営規模の小さな5軒は雇用者を全く使用しておらず、残りの2軒でも、従業者8人のうち4人、または5人のうち2人が家族構成員で占められる。恒常的な雇用は1軒(2人)のみであった(臨時雇いは2軒で5人)。それゆえ、兼業に従事しているものも含めて家族労働者は14人、雇用労働者は7人であり、由岐町の民宿業は就労機会の創出という面ではさほど大きなウェイトを占めてはいない。
(2)観光客の動向
1 民宿利用者
  上記民宿の7軒での聴き取りによれば、民宿利用者の多くは固定客である。民宿は一般に小規模で資本力が限られるため、広範な集客活動を行っているとも思われない。このため、新規利用客の拡大は固定客からの口コミに依存することが多い。したがって、利用客の居住地は特定の場所に固まる傾向がある。下 孝夫(1994)のアンケート結果では、海部郡では一般的に規模の大きい民宿は県内客の比率が高く、小規模な民宿の中には関西などからの県外客を専らにしているところもある。由岐町の場合も同様で、1軒が関西客(70%)をはじめ専ら県外客によって利用されている(表8)。残りの民宿では、おおむね県内客と県外客とが同率ないしはやや県内客が多いようである。


 表9における宿泊客の種類で、「友人」とあるのはほとんどが釣り客である。この県外からの釣り客相手に特化した民宿が1軒(表8中のG)あり、逆に海水浴などを目的とする家族連れを宿泊客としているものも1軒(同D)存在するが、両者を同程度受け入れているものも多い。
2 明神荘
 町営国民宿舎の明神荘は、1972年に設けられたキャンプ場に付属する形で、その翌年開業した。当初は通年営業であったが、1986年からは4月1日〜10月1日までの夏期のみの営業となった。今回の調査では、1976年度・1978〜81年度・1988年・1990年・1992年の5期分について、宿泊者名簿から利用者の住所・人数・期日などを把握することができた。宿泊者名簿から判明する利用者数は、1976年度96組595人、88年179組1,545人、90年は226組958人、92年181組843人で、1988年以降は減少傾向にある。
 利用者の居住地に関しては、大阪・神戸を中心とする関西からの利用者と県内からの利用者とで全体の約7割を占めている(表8、図1)。しかし、1988年以降、県内利用者は約10ポイントほど減少し、変わって中国地方や「その他」の地方からの利用者が増加している。これは、大鳴門橋−瀬戸大橋の開通にともなう新たな動向とみられるが、この点については、今後、観光客に対する周遊ルート調査などを通じて確認する必要があろう。一方、県内客の分布に関しても調査年については大きな変化はなく、徳島市からの利用者が5割程度(1992年はやや高くて56.9%)を占め、徳島市の周辺町村居住者がこれに続いている(図2)。


 明神荘利用の目的や各利用者の社会的関係に関しては、すべての利用者について把握できないものの、以下のような傾向が認められる。1976年度にはかなりあった「研修」などを目的とする利用者は近年はほとんどなく、10人以上の団体利用客は1976年度の15.6%から1992年には6.6%にまで減っている。それゆえ、宿泊客1組当たりの利用者の平均人数は、1976年度の6.2人から1992年には4.7人に減少し、家族もしくは友人を単位とする利用層が大半を占めている。
 なお、利用者はゴールデンウィークと夏休みとに集中するが、相対的にはゴールデンウィークにおける利用の比重が高まりつつある。すなわち、1976年度には全体の3%がゴールデンウィークに、66%が夏休みに利用していたのに対し、1988年にはそれぞれ16%・63%、1992年度には15%・49%と推移した。
(3)田井の浜海水浴場
1 田井ノ浜海水浴場の利用状況と臨時駅乗降客数の推移
 田井ノ浜海水浴場は由岐駅から西へ約1km 離れた砂浜海岸にある。由岐町の有力な観光スポットの一つであり、1992年には6月28日から8月末日まで開設された。
 海水浴場の東側には駐車場があって、自家用車の利用も可能なほか、海岸沿いにJR牟岐線が通っていて、毎年7月下旬から8月半ばまで臨時駅田井ノ浜駅が営業されるので、交通の便には恵まれている。シャワー室・水洗トイレも完備している。
 田井の浜海水浴場の利用者数について、1983年から1992年までの10年間の推移についてみれば、1985年をピークにして減少傾向にあり、1992年はピーク時の約5分の1にとどまった(図3)。また、1988年以降の臨時駅の開設期間や乗降人員をみると、乗降人員で最高の数値を記録しているのは、「総数」と「1日平均数」とも1990年である(表10)。1990年については典拠資料が異なるが、この年は例年に比べると「晴天」日が多く、全般としてやや猛暑といえる年であった。1日当たりの実数で見ると、最高の乗降客数があった日の数値は例年とさほど変わらないが、最低の値が高い。毎日コンスタントに利用客があって総数を押し上げたことが知られる。図3に戻ると、駐車場利用者も含めた海水浴場の利用者全体の値は、前年の1989年より下がってはいるが、これは監視記録の数字をそのまま入力したものであって、統計のとり方が他の年とは異なるためである。海水浴場の利用者全体に占める臨時駅利用者の構成比が、例年10〜20%台なのに、この年のみ30%を越しているのはみかけ上だと見るべきであろう。


 4年ぶりの冷夏となった翌年の1991年はやや減少している。また、1992年はサメ騒動のために全国的に海水浴場の利用客が激減した。田井ノ浜海水浴場も例外ではなく、臨時駅の開設期間も短くしたため、総数は最低を記録している(図3・表10)。さらに、1993年は冷夏と相次ぐ台風の来襲で天候に恵まれず、「雨天」の日が「晴天」とほぼ同数であった。そのため、1日平均でみると前年実績をさらに下回り、最低記録を更新した。

2 海水浴客へのアンケート調査結果
 1993年8月1日に海水浴場で面接法による聞き取り調査を行い、89組から回答を得た。この日は薄日が射す曇空で、しかも14時頃から雨が降り出したため、必ずしも適切な調査日ではなかった。しかし、1993年は冷夏に加えて週末に台風の飛来することが多く、やむを得ずこの調査結果を利用することにした。
 海水浴客の居住地は79.8%と圧倒的に県内が多く(表8下段)、とくに徳島市が31組と全体の35%に達した。うち、1組を除いて、すべて県東部の市町村からの海水浴客であった(由岐町内5組も含む)。県外からの海水浴客の場合も、徳島県内の出身であるか、あるいは県内の親類・友人を訪れた際に当海水浴場に来たものが多く、そうした海水浴客も県内関係者とみなすならば、県内からの来場者のポイントはさらに4.4%上昇する。海水浴客の社会的関係は「家族」が63%であり、「友人」が33%であった。
 以上のように、田井の浜海水浴場の利用客は徳島市周辺からの家族・友人による日帰り客が多い。そうした中で、宿泊客も24組(27%)を占め、その多くが町内の宿泊施設を利用していた。利用頻度についても、「初めて」の来場者が24組あった反面、10年以上利用している海水浴客も54組(61%)にのぼった。このように、当海水浴場は比較的集客範囲が限定されたなじみ客によって、身近な海水浴場として利用されてきたといえる。
 なお、シャワーなどの設備に関しては、数が不十分との意見もあったが、おおむね満足しているようである。しかし、調査対象となった海水浴客の大半が自家用車で当海水浴場を訪れており、駐車場の確保は重要な課題である。
3 田井の浜海水浴場利用客の時間的動向
当海水浴場の臨時駅周辺には3ケ所の駐車場があり、海水浴客の時間単位での駐車場(=海水浴場と海水浴客の結節点)の利用行動を把握するために、駐車場における車の出入り調査を行った。以下、230台の最大収容能力を有する第1駐車場の調査結果について報告する。本調査も、海水浴客アンケートと同じ8月1日に行った。この結果、10時〜16時40分の間に318台の車の出入りが確認された。ただし、調査を開始した10時の時点ですでに36台が駐車しており、また調査終了時の16時40分にはまだ8台が残っていた。この他にも、入場もしくは出場のいずれかを確認できなかったものが52台あり、調査対象とされるのは残りの222台である。
 出入りの時間帯の中で注目されるのは14時以降の急激な出場であるが(図4)、これはこの頃から激しくなった驟雨(しゅうう)のためである。10時30分から13時30分までは、おおむね30分間に30〜40台の入場があり、11時以降には出場する車も増え始める。13時30分から14時にかけては入場車がきわめて多いが、これは、昼食のために再入場した車と、午後になって新たに来場した車のピークとが合致したためで、この頃には駐車場は満車状態となり、駅裏や海水浴場西側(木岐側)では周辺道路への違法駐車も多くみられた。
 入出場時刻が明らかな222台について、途中の入出場を考慮せず、最初の入場時刻と最終的な出場時刻から駐時間を算出すると、当日は3時間前後の駐車が最も多くみられた。ただし、この点については、当日の天候変化も考慮に入れておく必要がある。

4 おわりに
 以上、概括的ではあったが、由岐町における第一次産業と観光産業の近年の動向について報告してきた。農業についてみれば、耕地の乏しい由岐町では、ハウス温室による菊栽培に特化した農業経営を導入することで、農業収益を高めてきたといえる。収益性や土地生産性の高さは農家の営農意欲を高める結果となったが、農業経営者の高齢化も進んでおり(表3)、産地としての基盤を失う可能性もある。早急に、農業後継者の育成が望まれる。また、そのためにも市場への安定供給や経営規模の拡大、品質向上といった側面からの取り組みも必要であろう。
 これに対して、中心産業である漁業についても、長期的な沿岸漁業の低迷から脱却できず、後継者不足という現実に直面している。由岐町の漁業は、分立する漁協単位での共同体規制の下に資源保護や漁業経営がなされてきた。しかしながら、漁業従事者の高齢化が進む中で、今後もこうした体制がそのまま維持できるわけではない。資源保全・生産・流通過程における漁協間の共同化・合理化も考慮する必要があるのかもしれない。
 他方、遊漁案内業の拡大は、いわゆる観光農園と同様に、地元の水産資源を活かした新たな観光資源とみなすこともでき、それは一方で、民宿経営の重要な顧客層を形成していることが判明した。また、近年の交通体系の変革によって、新たな周遊利用客の集客も可能となったといえる。しかしながら、既述のように、観光産業と地元の他産業との連関はいま一つ鮮明ではない。由岐町における観光資源は、海面をも含めてその自然環境にあることはいうまでもない。今後、由岐町の観光開発が滞在型あるいは県南周遊型を目指すにしろ、今後も自然環境を損なわず、開発との調和ある発展・活性化が望まれる。
 本調査を行うにあたっては、由岐町役場ならびに教育委員会をはじめ、多くの機関・関係者のご協力を賜わった。ここに記して、深謝申し上げます。なお、本稿は第1章第1節を横畠・板東、第2章第1節・第2節を立岡、同第3節を藤田・立岡、それ以外を平井が草稿を執筆し、全体の調整を平井が担当した。
参考文献
横山 昭・田島 衛編(1956):『磯漁業地帯―徳島県「阿部・伊島」の構造―』阿波研究叢書(阿波研究叢書刊行会)、第1集。
日本地誌研究所編(1969):『日本地誌 第18巻(香川県・愛媛県・徳島県・高知県)』二宮書店、pp.392〜395。
阿波学会総合学術調査報告(1974):『宍喰町及びその周辺』郷土研究発表会紀要、第20号。
大喜多甫文(1989):『潜水漁業と資源管理』古今書院、pp.312〜332。
下孝夫(1994):『海部郡における観光開発』(1993年度鳴門教育大学修士論文)。

1)徳島大学総合科学部 2)四国大学経営情報学部 3)上板町立上板中学校
4)鳴門教育大学学校教育学部 5)鳴門教育大学大学院


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