阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第42号
北島町における地神信仰

民俗班(徳島民俗学会)

 庄武憲子1)・東田塁美2)・岡島隆夫

1.はじめに
 我々3名は、7月28日から4日間、北島町内の11の地神社の実態調査を実施した。また9月24日の社日祭には祭りの状況を見学し、聞き取り調査を行って、現在まで受け継がれている地神信仰の一端にふれるよう努めた。ここでは、地神社の概要と社日祭の様子を報告し、併せて、それらを通してうかがえた、阿波特有とされる地神信仰についての考察を若干試みてみた。

2.北島町の地神社概要
 阿波特有とされる地神信仰の中で指摘されてきたものに、地神として祭る碑や祠(ほこら)(地神社)が、全県下に相当な数で存在していること、またそれらの形態に統一性があること等があげられる。なかでも、五角柱の心石に天照大神、倉稲魂(うかのみたま)命、埴安姫(はにやすひめ)命、少彦名(すくなひこな)命、大己貴(おおなむち)命の5神名を記したものが、旧徳島藩に集中して見られることが注目されてきた。
 一方で、阿波特有といわれながら、地神社の正確な分布状況や形態を記した資料は少ない。これをうけて、ここでは、北島町内の地神社の分布とその個々の形態についての資料を報告したいと思う。
 1)地神社の分布と一覧
 今回の調査で確認した北島町内の地神社は11あり、その分布を地図に表したものが図1である。また、図1上の番号にそって、その所在位置と通称をまとめたものが表1である。(なお、以後の本文や図表中の番号は、図1、表1の番号にしたがうものとする)
 図1、表1から、北島町内では、各大字ごとに、少なくとも一つの地神社が祭られていることがわかる。中村、高房の両大字には3社ずつ祭られているが、これは他の大字区域に比べ面積が広いことも一因していると考えられる。

 2)地神社の形態
 (1)形態と素材
 北島町の地神社11の形態とその素材をまとめたものが、表2である。


 この表から、北島町内の地神社の形態は、ほとんど類似のものといえる。11のすべてが、基壇、台座、心石の部位からなっており、基壇、台座については、形や段数に若干の差異があるものの、心石については、いままで指摘されてきたように五角柱となっている。なお、地神社付属の石造物として、基壇に取り付けた供物台や階段、社壇を囲む玉垣、鳥居、灯ろう、手水鉢などが見受けられ、それぞれの地神社を特徴づけている。
 素材は、ほとんどが砂岩である。心石の素材が花崗(かこう)岩である8 と10 は、後でも述べるが、昭和以降に建て替えられた新しいものである。したがって、北島町の地神社は、本来は砂岩で造られており、それ以外の素材が使われているのは、新しく造り替えたものと考える。台座、基壇と下部にいくほど他の素材が多くなるのは、心石を元のまま残し、下部だけ造り替える傾向があったためだと考えられる。

 (2)神名の配列順
 11の地神社心石には、すべて5神名が刻まれている。その神名の配列順と天照大神の対面方向をまとめたものが、表3である。これもほとんど類似しているが、1 と10 には、神名の上に神徳を表す語が記されているのが特徴的である。また、8 については「埴安媛命」と「倉稲魂命」の順が入れ替わっていること、1 6 9 10 については「少彦名命」が「少名彦命」と記されていること、5 7 8 では天照大神の「大」が「太」に、2 5 では「照」が異体字の「■」で記されている等の差異が見られる。
 天照大神の対面方向については、すべて北向きに統一されている。ただ、8 については、昭和53年に新しく心石まで建て替えられたものであるが、以前は天照大神が東を向いていたのではないかという話も聞かれる(藤川史郎氏65歳談)。

 (3)紀年銘
 11の地神社がいつごろ建てられたものかを確認するために、紀年銘をまとめたものが表4である。3 の灯ろうや6 11 の手水鉢などが年代的に古いが、他の神社などから移したことがはっきりしているのもあり、これだけで地神社の建立年代はいえない。2 は、玉垣の紀年銘により、少なくとも安政6年以前の建立だとわかる。1 は、台座の銘から明治32年に再建されたとわかるが、その古めかしい心石は藩政期の創建を物語っているようだ。

 3)まとめ
 以上、北島町の地神社の概要、その分布と形態について見てきた。これらからいえることは、北島町の11の地神社は、細かな差異はあるものの、形態、素材、神名、神名配列順のいずれについても、今まで報告されてきたものと同様、五角の石柱に5神名が同じ配列で刻まれた一定の形式に当てはまるようになっていることである。次に、その代表例として6 の全景写真(図2)と、11の地神社それぞれの寸法(図3〜13)を示しておく。

3.北島町の社日祭
 町内にある1 〜11 の地神社では、今も春秋の社日祭が執り行われている。社日は、春分・秋分の日に最も近い戊の日で、地神を祭る日とされている。昔、中国で天神を「神」と呼んだのに対し、地神を「社」と称した。暦法や五行説とともに、地神を祭る社日祭も中国に学んだとされる。この日を阿波では“地神さん”と呼び、村人たちが地神社に供物を祭り、春は豊作を祈り、秋には収穫を感謝する。この社日祭や地神社(地神碑、地神祠、地神塔などみな同じ。飯田義資氏の「地神碑と社日祭」によると県下に約2千社あるという)のことも阿波ではともに“地神さん”といっている。北島町でもそれを“オジジンサン”又は“ジジンサン”と呼んでいる。
 平成7年秋の社日に、町内の社日祭の現況を見学したが、祭典時間が重なる所があって実際に拝観できたのは2 4 7 8 10 の5社である。11 は天候(朝方までの強風雨)の関係で水神社社殿から遙拝形式の祭典であった。他の1 3 5 6 9 については、祭典の前後にたずねて見学した状況や、神職や古老からの聞き取りに基づく状況を示す。
 1)社日祭の準備
 社日祭の準備は、各社とも当家(オトウヤ)が受け持つ。氏子が神社(氏神)の氏子と重なるので、神社の当家組が兼ねるところが多いが、4 11 のように地神当家を別にくじで決めるところもある。輪番制で、任期は1年または半年、当家数も氏子地域の広狭によって1〜10戸とまちまちである。当家は、社日の前日または当日の朝、次のような準備をする。
 ア.地神社とその周囲を清掃し、地神社の心石にしめ縄をつける(各社)。
 イ.地神社の四隅にささ竹を立て、それにしめ縄を張り巡らせる(1 3 5 7 8 9 10 )。
 ウ.5祭神名を染め抜いた地神幟(のぼり)を立てる。4 は5本、6 は一対(図4)。
 エ.地神社の周囲に幕を張る(2 11 の2社、図5)。
 オ.供え物を用意する(各社、次項に詳述)。
 カ.直会(なおらい)用の酒や煮しめなどを用意する(各社)。
 神職への謝礼や準備に要する費用は神社会計から出るが、不足分は当家が負担する。

 2)供え物
 社日祭の供え物の準備は、ふつう当家の仕事だが、6 では祭りを取り仕切っている長老が用意する。どのようなものを準備するかは、当家帳や当家の引き継ぎによって定められている。供え物の種類は、普通、米(洗米、稲穂)・神酒・鏡餅(もち)・魚・海のもの(ワカメ、コンブ、スルメなど)・山のもの(シイタケ、カンピョウ、コウヤ豆腐など)・野菜(ダイコン、ニンジン、キュウリなど)・果物(バナナ、ミカン、リンゴなど)・菓子・塩・水などが一般的だが、その種類や数量は所によって差異がある。各社とも当日朝、神事に先だち祭壇の上に三方に盛って供えて置く。6 では三方の数は7台ときまっており、鏡餅は12重ね(うるう月のある年は13重ね)を供える。2 では三段に重ねた特異な鏡餅を供える(図6)。5 8 では五穀(米・麦・粟(あわ)・キビ・豆)を取りそろえて供える(図7)。4 7 のように焼き魚を熟饌(せん)(調理した神饌)として供えるところもあるが、メザシやイリコをお供えの魚と決めているところが多い。このように、古来のしきたりに従って供え物を用意して神事を迎える。

 3)神事(御祈祷(ごきとう))
 所定の時刻に神職が到着すると、参列者(総代・当屋・氏子の有志ら、各地神社とも15人前後)一同が神前に居並び、御祈祷が始まる。神前に敷いたゴザに座るところ(4 10 、図8)や、いすに腰をかけるところ(2 )、立ったままのところなどの違いがあるが、共に神職の所作に倣って拝礼し、かしわ手を打つ。まず「修祓(しゅうばつ)」で神前や参列者を祓(はら)い清め(図9)、お供えを「献饌」し、神楽太鼓を打ちながら「中臣祓(なかとみはらい)」を上げる。続いて「祝詞」が厳かに奏上され、参列者一同「玉串」を捧げて拝礼し、「撤饌(てっせん)」で終わる。この間約20分、神前にロウソクをともすところ(4 )や、松明(たいまつ)をたくところ(8 、図10)もある。11社のうち9社までは神職が御祈祷するが、5 6 の2社は神職を招かず、当家や村の長老が祝詞をあげるしきたりになっている。このことについては後で触れる。

 4)直会(オナオライ)
 どこの地神社でも、神事が終わると、お下がりのお神酒・焼き魚、当家の準備した煮しめ・赤飯・巻きずしなどで直会(図11)をする。場所は神社の社殿や社務所などだが、11 では幕を張った地神社の前のゴザの上で、神酒や煮しめを参拝者にもふるまう(藤川史郎氏65歳談)。4 では、直会には全氏子(約60戸)参加が建前で、当家帳には供物のほかに「直会用として煮しめ、酢の物、金時豆の煮物、赤飯(又はすし)を用意すること」とあり、そばの蛭子神社社殿で今も盛大に行っている(三木寿子氏61歳談)。直会は、お下がりを戴くことにより神の霊力を授かる意があり、鏡餅などの供え物は参列者が分けて持ち帰る。以前は鏡餅を小さく切って全氏子に配っていたという。

 5)その他(社日祭にともなう行事や言い伝えなど)
 この日、6 では農具市や植木市が催されていたが、農具市は昭和の末年で終わり、植木市もこの秋は台風の影響で開かれなかった。昔は、この日は農民の休日で、御祈祷の後で農事の相談をした。そして「田畑に入らない、土をいじってはいけない」と言われていた。ふだんは忙しい農家の嫁も、餅を土産に里帰りをした。今はその餅をつく家も少なくなり、ほとんどの人が休まず農作業をしている。そんな中で老門(中村字本須)の三木家のように、床の間に地神さんの神号軸を掛け、灯明をあげ、お神酒、赤飯などを供えるなど、古くから伝わる家の祭りを大切にしている家もある(図12)。
 「秋のジジンサンは少々遅くなってもよいが、春は早いうちにお参りするように」との言い伝えは、種まきの時期を失しないようにとの教えで、いまも生きている。「彼岸の中日と社日が重なった年は、東向きの鳥居を五つ(または七つ)くぐると、無病息災で過ごせる」との言い伝えによって、いまなお巡拝にでかけている人もあるそうだ。

4.北島町の地神信仰と「春秋社日■(しょう)儀」
 1)地神さんの起源と「春秋社日■儀」
 阿波の地神さんの起源ついては、「寛政元年(1790)に、当時勢力のあった徳島城下富田八幡宮の祠官早雲古宝(ふるとみ)が藩主治昭に説いて各村に地神祠を奉斎せしめ、庄屋に祀(まつ)らせた」(『日本の民俗 徳島』)という金沢治氏の説がよく知られている。荒岡一夫氏は、『貞光谷見聞録』(武田浦三郎、明治44年手記)により、その年を「寛政2年(1791)」(『徳島の石仏』)としている。早雲古宝(伯耆(ほうき)、いみなは高宝)は、この時おそらく上方で手に入れた大江匡弼著『神仙霊章 春秋社日■儀』(序文に天明元年 〔1781〕 とあり、農業の守護神である地神の大切なことを説き、その祭り方を示した本で、寛政元年再版されて三都の本屋から出た。以下『社日■儀』と略す)を手本にしたに違いない。なぜなら、多少の例外はあるものの、阿波の地神さんの形態は
 ア.基壇の上に台座をおき、その上に五角の石柱を立ててある。
 イ.石柱に刻んだ5神名(天照大神ほか)は皆同じで、その配列順序も一致している。
 ウ.天照大神が北向きに祭られている。
 エ.地神社には屋根がない。
など共通しており、『社日■儀』に記述されている「本朝社の略図」やその説明と一致している。このことは、すでに吉見哲夫氏が『羽ノ浦町誌民俗編』 等に述べているところであるが、北島町の今回の調査では、それに加えて、社日祭の祭り方についても『社日■儀』に倣っていることが確認でき、大きな収穫があった。
 2)北島町の地神信仰と「春秋社日■儀」
 (1)地神社について
 1 の心石に刻まれている神名は、北面の「農業祖神 天照大神」以下、時計回りに「五穀護神 大己貴命」、「五穀祖神 少彦名命」、「土御祖神 埴安媛命」、「五穀祖神 倉稲魂命」と、『社日■儀』 記載のものとほぼ同じになっている。平成7年に造り替えたばかりの10 の神名も1 と同じように刻んであり、その書式は造替前のものに倣ったものと思われる。玉垣を巡らせた地神さんが2社(2 11 )あるが、これも『社日■儀』に「社の主ハ五角の石に各神号を記して主とす、周廻に土手をつきて垣とす」と図説している土手の垣にならって後に造られたもののようである。
 (2)社日祭について
 6 の社日祭では、神職を招かずに村の長老が祝詞を上げている。その祝詞(図13)は、春社日・秋社日とも、『社日■儀』に記されている祭文(祝詞)と一字一句全く同じものである。村人から長老として尊敬されている敬神家の津田繁昌氏(86歳、神社総代歴25年)は、先代の兵吉氏からその祝詞を受け継いだという。同家に所蔵されているものでは、兵吉氏が昭和37年にしたためたものが最も古く、それ以前のものは見当たらないが、おそらくこの村では、代々『社日■儀』のままにこの祝詞を書き写し、今日まで伝えてきたに違いない。なお、隣村の広島浦村(現松茂町広島)にある春日神社の地神さんの当家記録のうち、「明治九年広島中傍示社日祭儀式」(『松茂町誌下巻』 所収)にも、『社日■儀』の社壇の図と説明文、社日祭の供物の準備や心得、祭文(祝詞文)等を記してあり、その事を証明している。また、5 では「社日祭は神職を呼ばずに当家が拝む(祝詞は無く中臣祓などを上げる)」と中野英雄氏(79歳)より聞いた。長老の役割が、いつしか輪番で奉仕する当家に付与されてきたものであろう。その他の1 2 3 4 7 8 9 10 11 は、当家が準備し、神職が拝む。神職の奏上する祝詞は、趣旨は同じでも文言はだいぶ違う。
 8 では、社壇の前に案を据え、鏡餅などを供えて、神職がゴザの上に座って祈祷するが、そのゴザの前で「松明」をたく。これも『社日■儀』にある「本朝社祭の式」の庭燎(にわび)をたく様子に似ている。前に触れた供物についても、お神酒は瓶子(へいじ)一対を三方に載せ、鏡餅は12重ね(但しうるう月のある年は13重ね)、米・麦・粟・キビ・豆などの五穀の初穂、魚、野菜など、『社日■儀』のそれに見倣っているように思える。

5.おわりに
 所により多少の違いがあるものの、近代化の進む北島町で、どの地区の地神さんも春秋の社日祭が今も漏れ無く行われ、それが他の地域より古式を伝えているのは驚きであった。この素朴な地神信仰には本町の農業の歴史が刻まれており、それが氏神信仰とあいまって、地域社会の人たちのきずなを強める大きな役割を果たしてきた、と言っても過言であるまい。
 最後に、調査にご協力いただいた藤川史郎氏、九鬼昇氏、津田繁昌氏、中野英雄氏、三木寿子氏を始め、町内の皆さんに心からお礼を申し上げて、本報告を終わることとする。

 参考文献
1.大江匡弼『神仙霊章春秋社日■儀』(〔神道大系 論説編十六陰陽道 神道大系編纂会 1987〕所収)
2.飯田義資「地神碑と社日祭」『近畿民俗』 第36号 1965
3.金沢治『日本の民俗 徳島』 第一法規 1974
4.荒岡一夫『徳島の石仏』 教育出版センター 1984
5.岡島隆夫「阿波の地神さん」『徳島県神社庁報』 第82号 1983
6.北島町史編纂委員会『北島町史』 北島町 1975
7.羽ノ浦町誌編纂委員会『羽ノ浦町誌 民俗編』 羽ノ浦町 1995
8.松茂町誌編纂委員会『松茂町誌 下巻』 松茂町誌編纂室 1976

1)徳島県立博物館 2)生光学園高等部


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