阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第43号
日和佐町の民家

民家班

(日本建築学会四国支部徳島支所)   

 酒巻芳保1)・植村成樹2)・

 工藤誠一郎3)・渋谷禎昭4)・

 田處博昭5)・田村栄二6)・

 根岸徳美2)・林茂樹7)・速水可次8)   

 姫野信明9)・本田圭一10)・

 吉原美惠子11)

1.はじめに
 日和佐町は太平洋に面して位置しており、その海岸線のほとんどに山が迫り、景観としては素晴らしいものであるが、その地域は生活の場として適している所は少ない。よって、海岸線沿いの集落としては日和佐川河口に集中しており、そのほかには恵比須浜に小集落がみられるくらいである。日和佐川河口の集落は、大きくは二つの成り立ちと考えられ、日和佐湾に面した海側は漁業を基盤とした集落として、そして山側は薬王寺の門前町として、それぞれが発展して融合した形で、現在の街区を形成している。その他の集落は、県内の山村地域と同様に川沿いに点在している。日和佐町においては、日和佐川やその支流の北河内谷川、山河内谷川及び赤松川沿いに農業や林業を生活基盤とした集落がある。この山村民家の位置であるが、徳島県中・西部や北部では、山の中腹から山頂付近にまで多くみられるが、日和佐町のみならず、海部郡内や那賀川流域では、ほとんどが川沿いの山
裾(すそ)に位置している。また農山村地域では、空家や建物が解体されて屋敷跡だけが残っているものがみられるなど、日和佐町中心部や町外への転出が推定され、他の山村集落同様の過疎化が進んでいる。
 私たち民家班は、出来る限り日和佐町全域から対象建物を選びたいと思い、川の流域ごとに予備調査を行い、農山村民家7件、漁村民家1件、その他3件の合計11件について、7月下旬の3日間で実測調査を行った。
 民家班調査員は、日本建築学会員を中心に上記執筆者のほか、専門学校穴吹カレッジの後藤和典、賀川良輔が参加し、調査や作図を行った。(酒巻)

2.日和佐町の民家案内
1)日和佐町の民家(図1)
 (1)谷口 ワキ家(山村農家)   赤松総屋敷332
 (2)樫谷 安春家(山村農家)   赤松44
 (3)春本 佳孝家(山村農家)   山河内字西山198-1
 (4)亀谷 良作家(山村農家)   赤河内赤坂203-1
 (5)滝本 嘉一家(山村農家)   北河内字大戸58
 (6)勝浦 安夫家(農家)     西河内字丹前5
 (7)岡田 安昭家(農家)     奥河内字奥潟170
 (8)楠原キシエ家(漁村民家)   恵比須浜16
 (9)森   理家(庄屋)     奥河内櫛ケ谷40-1
 (10)谷  温之家(廻船問屋)   日和佐浦184
 (11)細川 政代家(銭湯:初音湯) 日和佐浦118

3.日和佐町の民家
 (1)谷口 ワキ家(山村農家) 赤松総屋敷332
 谷口家は明治初期に建てられたそうである。水不足の地から、井戸から良く水が出るということでこの地に越して来たそうである。その後、明治から大正に変わるころに、それまでの茅葺(かやぶ)き平屋建てから、2階建て瓦葺き(図3、5)に改造した。
 家柄は農家で、屋号はナカシキである。飲み水は簡易水道を引いているが、普段は井戸水を利用している。
 配置(図2)は南側の山に庭を挟んで面するように建っている建物に、里道(さとみち)から建物の後ろを回るように上りながら納屋の西側からアプローチする。一番東奥に主屋があり、その西に納屋(牛小屋)(図6)がある。アプローチ西側に3棟が南北に並んでおり(図7)、その一番南がタバコ乾燥小屋である。
 主屋は、桟(さん)瓦葺き切妻(きりづま)屋根、四方に下屋(げや)を付けている。規模は、間口7間、奥行き3間半である。東側に土間・風呂を増築している。食い違い四間取りで、右勝手になっている(図4)。マエノマの外には外縁が付いている。玄関部の一部を物置に改造している。
 大黒柱は20cm 角で、内法(うちのり)高173cm である。外壁は土の真壁(しんかべ)、内壁は玄関・台所・脱衣所がプリント合板、他はセンイ壁となっている。床は台所・脱衣所が板張りに変わっている。(工藤)

 (2)樫谷 安春家(山村農家) 赤松44
 この建物は、前所有者が北海道に移住した後、明治30年(1897)ごろに樫谷家が取得したものである。家柄は農家で、屋号はイタンゼ、家紋はダキミョウガである。飲み水は平成2年(1990)まで井戸を利用していたが、ほ場整備時に水が濁り、それ以後、山水(簡易水道)を利用している。
 配置は、北側の山を背に南は幅員4.5m の町道に面している(図8、10)。主屋を中央にして、その東隣に納屋、その南に便所・風呂棟が建てられている。さらに、その東には以前タバコの乾燥に利用していた倉庫が建っている。主屋の西側にはインキョ棟がある。一番西側屋敷外に車庫が建っている。
 主屋は、茅葺きで、四方に下屋を付けている(図11)。茅は近くでとれたものを確保しておき、その都度補修しており、良い状態で管理されている。
 規模は、間口五間、奥行き三間半である。間取りは、オクノマ・チャノマ・トコノマ・マエの食い違い4間取りで、右勝手になっている(図9)。マエの外には、外縁がついている。ニワ、スイジバもほぼ当時の間取りと同じと思われる。現在は流し台が東側壁際にあるが、以前はほぼ中央に南北にカマドがあった。入り口東にある物置は、かつては外便所があった。
 構造は、小屋は扠首(さす)組(図12)で、結束はワラ縄を使用している。大黒柱は15×18cm、外壁は土の真壁、内壁はセンイ壁となっている。天井はニワ・スイジバが梁顕(はりあらわ)しのラワン合板張り、他は竿縁(さおぶち)天井になっている。(工藤)

 (3)春本 佳孝家(山村農家) 山河内字西山198−1
 春本家は日和佐川の上流、河口から約4km の左岸、南面した山の斜面にある兼業農家である。屋号はヒガシで、家紋はミョウガ。敷地は南側の前面道路より1m 程高くなっており、周囲は四角形に成型された石垣で、隙間なく直線的に石組みがなされている(図14)。 この石垣はこの地域には多く見られた。
 敷地内には主屋、納屋、蔵、便所の4棟が建っている(図13)。
 主屋の屋根は、もとは寄棟合掌(がっしょう)造りの草葺きで、現在は波トタンで葺(ふ)かれている(図15)。
 オブタは垂木(たるき)の上に小竹を渡し平瓦を葺いている(図16)。建築年は棟札の確認ができず、また、聞き取り調査においても判明しなかった。 間取りは、右勝手の入口を入ると3畳程のニワがあり、一段あがって4畳半のナカノマ、床の間・仏壇・神棚のある8畳のオモテ、居間として使われている10畳のチャノマ、寝室に使われている4畳半のオク、他に増築されたと思われるスイジバがある。オモテ・ナカノマの前にはエンがある。また、ニワ・ナカノマ・チャノマの交点に210×225mm の大黒柱がある(図13)。(姫野)

 (4)亀谷 良作家(山村農家) 赤河内赤坂203−1
 亀谷の姓は、日和佐では当家だけといわれる。現在家族は日和佐に住んでおり、この家は、客がきたときに泊まる客間として使われている。屋号はカメンタニで、本名に近い。この付近の家には全部屋号があるが、他は屋号と本名が異なる。屋敷神は裏山の「山の神さん」で、かつて祠(ほこら)があった。
 主屋以外に、納屋門と外風呂がある(図20)。主屋は明治30年以前の建築で(図18)、当時敷地の上にあって台風で倒れたアカマツの大木から、木を全部取った。柱は5寸角、大黒柱は240×190mm である。断面を詳細に実測した図面を示しておく(図17)。間取りは昔のままだそうで、六間取りである(図21)。普通はナカノマがないが、当家は家族が多いのと2階がないために、設けられたらしい。内部の造作はあまりさわられていない。カマヤは部分的に改造され、瓦は10年前に葺き替えられた。当時は瓦を葺く家は少なく、草葺きが多かった。また瓦は二つ山を越え、星越から運んだといわれる。人は住んでいないが、玄関の欄間(らんま)の透かし彫りなどがきれいに残され(図19)、全体として家を大切に使ってきたことがうかがえる。 (渋谷)

 (5)瀧本 嘉一家(山村農家) 北河内字大戸58
 車一台がやっと通れる細い山道を登り切った場所にあり、ここより先は車が通れず、徒歩のみとなる。標高は約200m。すぐ裏には山が迫り(図24)、南の谷には小川が流れている。西にはタブの大木がある(図25)。敷地は南向きで、冬でも暖かいといわれる(図22)。
 主屋はもともと四間取りで(図23)、徳島の多くの四間取り民家に共通するオクとオモテと呼ばれる部屋がある。明治初期に建設されたといわれる。草葺きの屋根はトタンで覆われ、桟瓦の下屋が四方を取り囲む(図26)。平成になってドマが改造されて、1部屋増築された。
 かつてトイレは主屋より高い位置に設けないというしきたりから、敷地の外の南の低い場所にあった。また鯉のぼりを上げない習慣がある。小松島から平家のお姫様が逃げて来たが、鯉のぼりを上げると鯉が滝の水を飲んでしまうといってお姫様が怒るからだ、という言い伝えがあった。 (田村)

 (6)勝浦 安夫家(農家) 西河内字丹前5
 主屋に棟札は残されていないが、江戸末期に普請されたと伝えられている。敷地内は主屋、納屋、長屋門の構えで(図27)、主屋の内部を改装したのは大正時代であったという。
 主屋は右勝手で、ゲンカン、オモテ、オクザ、オクにニワとスイジバという間取り(図28、29)。長屋門からまっすぐ敷石の上を進むと主屋のニワに通じており、その奥の板張りの小さな間を経て、奥にスイジバがある。当初、ニワの奥は土間で小さな物置がしつらえられていたことが家相図から知られる。ちょうどスイジバの裏に山水がでるのだが、飲料水は水道からのもの。ニワの向かって左手にはゲンカン、次いでオモテがあり、オモテには外縁がめぐらされている。ゲンカンは二重の戸で、その幅で右手前にはトノグチがある。ゲンカンの奥はかつて台所で、現在はオクザに、オモテの奥はオクの間となっている。
 屋号はナカ。家紋は亀甲に扇で、扇を重ねた釘(くぎ)隠しが施されるなどしている。大黒柱はケヤキ。主屋の裏側は山に臨んでいるため、スイジバの裏には屋敷神である「山の神さん」が祀(まつ)られている。そのほかにオモテの床の間には「天照大神」、物入れ上部には「荒神さん」が祀られていて、その横にオクザ側から仏壇が設置されている。
 主屋に向かって右は納屋であったが、こちらは改装後、隠居スペースとなっている。長屋門の向かって右側が納屋、左側が座敷になっており、かつてその座敷には学校の先生を住まわせていたという(図30)。 (吉原)

 (7)岡田 安昭家(農家)  奥河内奥潟170
 奥河内に位置する、以前はかなり土地を持っていた裕福な農家で、山に沿った扁平な敷地の形状から、主屋の左右に納戸や倉庫(2階を離れに利用)を配置している(図31)。現在納戸として使用されている建物は、妻壁小屋部分に煙出しがあり、葉タバコの乾燥小屋であったと言う。主屋の屋根は元は草葺き(寄せ棟)、一部は欠けているもののほぼ四方に下屋をまわし、正面と左面を本瓦、右面を桟瓦、裏面をトタンで葺き、外壁は真壁しっくい塗り、腰はささら子下見板張りである(図33)。
 平面はトコノマ、オクザシキ、ナカノマ、チャノマの四間取りの、日和佐地域に多い表玄関と内玄関を持つ形式で、右勝手となっている(図32)。棟札での確認はできなかったが、家人の話から江戸末期から明治初めごろに建てられたと考えられる。
 トコノマの床や神棚などオクザシキの一部を改造してしつらえた事、チャノマの一部を押入とした事、内玄関の土間の一部を座敷(3畳)とした事など、種々の改造が施されてきているが、特にモノオキについては、他の事例から見て、外縁を壁で囲む改造がなされたものと推測される。各部改造個所の施行時期については不明である。
 下屋の屋根下地では、本瓦葺きの部分が最も古いらしく、垂木に約15cm 間隔で桟を打ち、杉の薄板(剥(は)ぎ板)を重ね葺きして、その上に葺き土を載せている(図34)。(本田)

 (8)楠原キシエ家(漁村民家) 恵比須浜16
 恵比須浜の集落は、日和佐港の北部、由岐町との境に位置する。小さな集落で、漁業を主としている。古い家は平屋で低く、激しい風雨から守るために、石垣で軒の高さまで囲んでいる(図35)。現在では2階建ての家も多くなり、石垣も所々に残るのみとなっている。
 楠原家は、港から少し入ったところに位置する。他の住戸に比べ、前庭を広くとっており、裏はすぐ山である(図36、37)。建築年は大正元年(1912)〜2年(1913)、現在の所有者は、戦後、この住宅を別宅として購入し、現在はここに住んでいる。約13坪の小さな四間取りの住宅である(図38)。内部の仕上げはセンイ壁や合板で、改装の跡が見られるが、間取りなどの大きな改造はない。当初、ゲンカンは奥まで土間であったが、現在、一部を板張りにしている。奥の土間とダイドコロには天井を張っていなかった。ダイドコロにはイロリがあり、現在でも冬の間使われている。 (根岸)

 (9)森 理家(庄屋) 奥河内櫛ケ谷40−1
 屋敷は、道路から西側で東北斜面の山麓(さんろく)にある。等高線沿いに南北に細長い平坦な敷地で、南側、及び西側は山である。飲料水源は、屋敷南方の山中にある。進入路は、高低差を吸収するため雁行(がんこう)した経路と階段である。
 建物は、南側より主屋、蔵、及び納屋と一列の配置(図43)である。登り詰めた進入路の正面に主屋の通用口が、左側に客用玄関がある。その奥に板垣で区切られた表庭(図39)がある。通用口右側には、作業庭があり、これを囲む形で蔵、下屋付き納屋がある。主屋の平面(図42)は、通用口を通れば8畳の玄関土間(現在一部3畳半の畳敷き)、次に10畳程の作業土間(現在板床の居間と便所)、その奥に8畳土間でのカマヤ(現在板床の台所)がある。すなわち、作業庭を中心として南側には生活施設(図40)、北側には作業施設、西側には各々をつなぐ蔵がある。夕日を除き、日光を十分取り入れる配置である。この構成は、日常作業生活を営む上で、機能的で充実している。また、これらの南側には客用玄関、玄関の間、及びオモテの2間が非日常施設として構成され、合わせて森家の全体をなしている。森家は、時期は不明だが、北(現在阿南市橘町)より移り住み、新田開発を経て庄屋として生計をたてた。主屋は明治25年(1892)、蔵は大正初期の建築である。主屋土間部分の改造は昭和40年(1965)ごろである。通用口土間天井は、3尺幅のマツのアテ材である(図41)。 (田處)

 (10)谷 温之家(廻船問屋) 日和佐浦184
 日和佐の厄除け橋の東、日和佐浦の碁盤目に街区を形成している町並みの中に、南北の道路に渡る大きな敷地を持つ屋敷がある(図44)。幕末ごろここで海運業を始め、明治末まで営んでいた谷家で、初代は元禄14年(1701)生まれ、相生から出てきて天秤(びん)棒一本で名を成したそうである。現在の当主は九代目になるが、現在商売は行われていない。屋号はタニヤ(タンニヤ)といい、敷地北側の道路に面して北向きの「タニヤのお地蔵さん」が、敷地に食い込んでいる(図45、48)。南側道路に面して中央に門があり、その正面奥に主屋玄関がある。主屋の一部のミセの間は東から南に突き出し、道路に面して門と並ぶ。 主屋の北、地蔵との間にはかつて土蔵があったが、今はハナレに建て変わり、主屋と渡り廊下でつながって、現在はここに住んでいる。東側の2階建てハナレは、かつて玉突場として使用されていた建物で、往時のモダンな生活がうかがわれる。敷地北東方向は鬼門(きもん)切りが施され、屋敷神が祀られている。また、主屋オモテの前庭には祠もある。
 主屋は日本瓦本葺き入母屋造り2階建て、道路に面したミセ部分は袖(そで)瓦葺き切妻の下屋造り、格子窓や二階の虫籠窓に商家の雰囲気が漂っている。明治3年(1870)建築と言われているが棟札は見つかっておらず定かではない。1階平面は、正面に式台のある本玄関を持ち、9部屋ほどあって、西側は田の字形に比較的整っているが、東側はミセの間に続いていて、商売上の接客のためか変則で、天井に龍の絵を貼ってある「応対の間」、「女中部屋」などが通りニワに接して設けられている(図46)。
 2階への階段は3カ所もあり、箱階段もある。各階段で上った部屋はそれぞれ1、2、3部屋ずつに区分される(図47)。これは、部屋の独立性を保つためのものと考えられ、開放的な間取りが当たり前の当時としては、珍しいことであろう。2階の部屋には、壁に商売で使用した大福帳が壁面いっぱいに貼られているなど、商家としての面影をとどめる。 玄関の屋根は一見入母屋と見間違うが、寄棟の上に切妻屋根を斗(ます)組で立ち上げた特異なものである(図49)。また、懸魚(けぎょ)も凝った彫刻が施されている。玄関の詳細を実測したので、示しておく(図50)。カマヤは吹き抜けになっており、顕しになった2階梁が美しい(図52)。そして屋根から煙出しの小屋根が、突き出ている。このカマヤ回りの下屋は、持ち出し梁を彫刻の施された大きな持ち送りで支えている(図51)。
 オモテの間には、随所に凝った意匠が見られる。床の間の砂壁には赤珊瑚(さんご)を散りばめて埋め込み(図53)、床脇も天袋に違い棚をつなげている。廊下側や書院の障子(しょうじ)、欄間の格子はそれぞれデザインが凝っており、長押(なげし)の釘隠しは文福茶釜のようである。この座敷には、南面から西面に矩折(かねおり)に外縁が巡らされている。北側にも外縁があり、ここには格子が張られていて、当主もそこで生まれたという北西の産屋(うぶや)へと続いている。 (林)

 (11)細川 政代家(銭湯:初音湯) 日和佐浦118
 銭湯を営んでいた所有者の亡夫の父により、明治42年(1909)に建てられた。棟梁(とうりょう)は、地元の宮大工、槌谷岩吉。かつては利用客も多く、にぎわっていたが、利用客の減少や店主の高齢化により、平成2年に廃業し、現在に至る。
 木造入母屋造り、本瓦葺きである(図55)。道路境界には高さ2m ほどの塀が設けられ、男湯、女湯それぞれ、脱衣所との間に坪庭がある。番台の窓には組格子が付けられており、格子下の腰壁にはモザイクタイルが貼られている(図56)。
 玄関は、左右対称に男湯と女湯の2カ所あり、間に番台が作られている(図54)。浴場と脱衣所の天井高は3.5m、浴場の中央部はさらに高く、湯気抜きのための窓が越(こし)屋根に設けられている。玄関内部の天井にはケヤキの一枚板が使われ、脱衣所は竿縁天井で、スギ板の柾目(まさめ)と板目(いため)のものを一枚置きに並べて張っている。脱衣所上部の明かり窓にはめ込まれた色ガラス(図57)は建築時に大阪から取り寄せたもので、当初、玄関戸、脱衣所と浴場の境の戸にも使われていた。番台や脱衣所の戸棚も建築当初のもので、往時の様子がしのばれる。
 男湯脱衣所には、完成後、棟梁が余った材料で3カ月ほどかけて作った神棚(図58)が据えられている。(植村)

4.まとめ
 私たち民家班は、近年に阿波学会学術調査や建築学会などで、由岐町、牟岐町、海南町、海部町で民家や町並みの調査を行ってきた。由岐町の西由岐、東由岐、牟岐町の出羽島、海南町の浅川、海部町の鞆の浦などは、「ミセ造り」 や生活空間としての「路地」を持ち、現在においても漁村特有の雰囲気を残した街並みが残っている。また、海南、海部両町には、海部城を中心とした「御鉄砲屋敷」などの士族の家も残っている。日和佐町中心部もかつては漁村集落として、また、門前町としてのものを持っていたと思われるが、県南部の中心地としての経済発展に伴う近代化が進み、昔の風情を残すものが少なくなってきている。「ミセ造り」(図59)を持つ民家は、1994年の調査で奥河内本村と日和佐浦地区に19件残っていた。
 しかし小規模ではあるが、恵比須浜の集落は漁村としての風情が残っており、特に風避(よ)けとして造られた瓦を乗せ、土を塗り込んだ石積みの塀(図60)は路地空間と共に漁村らしさの残る風景である。また、石積みは農山村地域にも多くみられ、屋敷のかさ上げや風対策の塀(図61)とされている。特に図14のような石垣が多く見られ、石加工技術水準が高かったことが推測される。
 民家の間取りとしては、ゲンカン、ダイドコロ、オモテ、オクの4間取りで、これにニワやカマヤを持つ県下の農山村部に一般的に見られる形式であり、ほとんどが右勝手(入り口が正面から見て右にある)である。日和佐地区の特有と思われるものに「御棚(みたな)」(図62)がある。これは、天井から吊(つ)られ、方向が自由になる可動式になっており、正月のお祭り事に使われ、その年によって方位を変えていくものである。(速水)

1)徳島県建築士会 2)UN建築研究所 3)工藤誠一郎建築地域研究所
4)住宅供給公社 5)徳島県住宅課 6)穴吹カレッジ 7)林建築事務所
8)剛建築事務所 9)建設材料試験所 10)第二工房 11)県立近代美術館


徳島県立図書館